フィンセント・ファン・ゴッホの生涯

1853年3月30日、フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ南部、ベルギーとの国境にほど近いブラバンド地方フロート・ズンデルトで、牧師の家に生まれる。

 男3人、女4人の6人きょうだいの長男(その前の初子は死産)で、4歳下のテオとは終生にわたり、強い絆で結ばれていた。
 フィンセントは16歳になると伯父の経営する美術商グーピル商会に入社。その3年後にはテオも同社の別支店に就職し、この頃からテオとの文通が始まる。兄弟の往復書簡はフィンセントが死ぬまで続けられた。  グーピル商会で、絵画について熱心に学んだフィンセントは一時、ロンドン支店に栄転。しかし失恋のせいもあって仕事に身が入らなくなり、接客能力がないと見なされて解雇されてしまう。それは両親にとっても屈辱的な出来事であり、フィンセントは汚名返上を目指し奮闘する。イギリスで教師をしたり、ドルトレヒトで書店員として働いた後、彼は父親と同じ牧師になるために勉強することを決意。しかし神学校の試験に合格できる学力を備えることができず、ベルギーのボリナージュという極貧の炭鉱地帯にある教会の伝道師見習いとなる。彼は自分の食べ物や衣服さえも、ことごとく貧しい炭鉱夫たちに分け与え、献身的に振る舞うが、その極端に献身的な行動が教会にとって望ましくないという理由で辞めさせられることに。
 窮地に陥ったフィンセントの元へ、最愛の弟テオが兄を絶望から呼び戻そうと訪ねてくる。テオはフィンセントに、芸術への愛を活かして芸術家を目指すべきだと提案した。27歳のフィンセントは最後の希望に賭け、テオからもらった教本を頼りに絵の独学を開始。驚異的な創作意欲を発揮し、着実に画才を伸ばしていった。
 やがて彼は、ハーグに住む義理のいとこで画家のアントン・モーヴの教えを受ける。しかし、アトリエで子連れの娼婦と同棲し始めたことなどが原因でモーヴと仲違い。フィンセントは両親のいるニューネンの牧師館へと戻るが、教会や牧師を批判し、父親と激しく争うようになり、まもなく父親は心臓発作で急死する。ここで最初の傑作「ジャガイモを食べる人々」を完成させるも家族との関係は修復しがたく、ベルギーのアントワープへ。ここで日本の浮世絵に興味を示している。

 テオのつてでコルモン画塾へ通い出し、トゥールーズ=ロートレックやエミール・ベルナールら、若く才能ある画家たちと出会った。
 それから3カ月、フィンセントはテオのおかげで前衛画家グループと接触するようになる。パリで大量の浮世絵を研究して日本に惹かれ、浮世絵に描かれているような陽の光を求めて、単身南フランスへと向かうことにする。
 彼がプロヴァンスのアルルに到着したときは雪が降っていた。ほどなくして雪は解け、花々が一斉に咲き乱れる。そこで、オランダ時代の技法とパリで学んだスタイル、さらに浮世絵の研究を融合させた、フィンセント独自の新しい画風が花開く。次々と新しい作品を描き上げたフィンセントは、パリから画家仲間を呼び寄せて共同生活を送れるアトリエを作ろうと、「黄色い家」を借りた。だが、やって来たのはゴーギャンだけだった。2人の間に競争心や反感が生じ始めると、黄色い家では頻繁に口論が起きるようになる。そして、その生活はある晩の諍いの後、フィンセントが自分の耳を切り落としなじみの娼婦に手渡した事件で終焉を迎える。事件の翌朝、ゴーギャンはアルルを去り、フィンセントは地元の精神病院に収容された。
 2週間が経ち、フィンセントの発作はすっかり収まったように見えたが、すぐにまた健康状態が悪化。彼の退去を求め、市長への嘆願書に署名した隣人たちからの圧力を受けて、フィンセントは自主的にサン=レミにある精神病院に入院する。

1886年、フィンセントはパリのモンマルトルに住むテオの家に転がり込む。
一年後、フィンセントはパリ近郊にあるオーヴェール=シュル=オワーズという村へ移り住む。

フィンセントがその地を選んだ理由には、精神科医ポール・ガシェの存在があった。ガシェ自身も絵画をたしなんでおり、画家たちとも交流があったからである。
 フィンセントは当初、ガシェ医師と友情を深め、オーヴェールにうまくなじんでいると思われた。しかし経済面、健康状態、弟とその生まれたばかりの子供、周囲からの孤立など、依然として様々な不安を抱えていた。ある日曜の晩、ラヴー宿に戻ったフィンセントは、腹に致命傷を負っていた。彼は自分で撃ったと主張したが、持って出た油彩道具は持たずに戻り、銃も持っていなかった。結局、油彩道具と銃は発見されていない。そして2日後、フィンセントは最愛の弟テオに看取られて息を引き取る。享年37歳。オーヴェールに到着してからわずか10週間で、70点の油彩を残していた。